2012年 11月 25日
先生には、明治から大正を生きた日本人の、独特の美学がおありだったように思う。 趣味はいわゆる骨董品や民芸品におありであったが、その収蔵品の一つ一つには、なにか面白いエピソードがついていた。 刀や茶器、文房具などはどれも適当な「手垢」がついており、新品にはない風合いをおびていた。 頂戴したご愛用の耳かきは、ご自身が作られた信用金庫にお勤めになっていた時から使用されていたということで、耳の油が浸透して飴色に透き通っている。こんな思い出のあるものを頂戴してもよいのかと思ったが、また作ればよいと仰せであったので、恐縮しながら頂戴したのを覚えている。 古いものを、実に大事になさっていた。 弓の技について、よくこういうことをおっしゃていた。 「手の甲を指の節を見て柔道家とわかる、手のひら虎口を見て弓道家とわかる、そういううちはまだまだハナタレ小僧で、技が身につくと、手を見たくらいでは何をやっているかわからなくなる。」 昭和の三筆と謳われた書道家、日比野五鳳先生は、古典に習って作品を展開するとき「お里がしれてはならない」というようなことをどこかで仰せになっていたのを覚えている。 日本料理では、出汁を取るときに、何からとった出汁かがわかってはならないという料理人もいる。 先生は、技というものを、そういうものとお捉えであったようである。 表面的な凄味は見えないが、その凄みは内面的なものとして迫ってくる、とでもいえばよいであろうか。 先生の師、市川虎四郎範士は、手にはタコ一つなかったというが、その息合いや弓勢は凄まじく、弓を倒す時さえ音がするようであったという。 「先生は、そりゃあもう全然話にならん、今の弓引きとは違う。息合いは『ハー』と聞 こえるようじゃったし、矢は肩ごしにもっと後ろから飛んでくるような勢いじゃった。 弓倒しも、今みたいにジワリと倒すんじゃあない、ブンと音がするようじゃった。」 その人に馴染んでいるというか、なんというか、いわゆる「自然」なものをよしとする思想は、なにも特別なものではないが、先生はそれを実見されていたのであろう。 そのものが持つ光や、音を非常に大事にされていた。 刃物がお好きで、鉋の刃などを見ていただくと、必ず日に透かして色をご覧になり、その音を聞かれた。海のすぐそばのお座敷で、やわらかい光の中で拝見したいろいろな道具の、影を伴う光や、潮騒を後ろに聞く、あの澄んだ鉄の音は、今でも鮮明に残っている。 貴重な体験をさせていただいたと思う。 先生の美学は、今でも私の基礎をなしているといえる。
by mitsunori55555
| 2012-11-25 13:12
| 偶感
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